リュードさんの頂き物の小説

 

 

『彼』という存在

 

 

「んっ? 何だ? 俺は、一体? ここは、どこだろうか……?」

 『彼』が目を覚ましたのは、一面黒の絨毯で覆い尽くしたかのような空間だった。右を見ても左を見ても、上を見ても下を見ても、映る光景はあらゆる輪郭や色彩を失ってしまった暗黒だけだった。

「何故、俺はここにいるんだ? そういえば、あの時、何があった?」

 『彼』は、自分が何故この暗黒の空間に一人放り出されているのか、全く理解できていなかった。『彼』がまずしたのは、目を閉じなければならない事態に晒される直前、に自分がいかなる状況に置かれていたのかを思い出すことだった。

 そこからの一連の記憶を辿っていけば、自分がこの一筋の光さえも届かない暗黒の中にたった一人……全てが闇に覆われているため、本当に自分一人なのかどうかは知覚できなかったが……置き去りにされている理由が把握できるかも知れないと考えたのである。

「そうだ、俺は宇宙船の船長だったんだ。突然、エイリアンの襲撃に遭って、船は撃沈寸前だった」

 『彼』は、少しずつではあるが、直前の状況を思い出し始めていた。とある宇宙船の船長を務めていたこと、任務遂行中にエイリアンの攻撃を受け、船が破壊されようとしていたこと。『彼』の中で、様々な出来事が断片的に浮かび上がっていく。

「そして、俺は最後の船長命令を下したんだ。この船を放棄すると。そして、全ての乗組員が脱出した頃合を見て、エイリアンもろとも船を爆破したんだ」

  『彼』は、自分に『命』があった時の最後の記憶を紡ぎ出した。その瞬間、『彼』は自分の記憶の点が一斉に音を立てながら一本の線によって結ばれていく感覚 を覚えた。それは、同時に自分の『命』がすでにこの世と呼ばれる場所には存在していないことを『彼』に自覚させるものとなった。

「そうか、俺は死んだのか。ということは、ここがあの世ってやつか。どんなところかと思えば、案外何もないんだな」

 『彼』は、自分が今いる場所が俗に言うあの世に違いないと判断していた。この世で命を落とした生命が来るとされている場所。ある者は魂の安息地と呼び、またある者は輪廻転生の中継地と呼ぶ。

 その他、種々の憶測がこの世にいた頃の『彼』の耳にも情報として届けられていた。しかし、現実にこうして来てみると、自分以外の何者かがいるような気配を感じることはなく、驚くほど静かだなと、『彼』は小さくため息を付いた。

  その時、『彼』の脳裏によぎったのは、エイリアンの攻撃を免れるために船から脱出された、大勢の乗組員たちの顔だった。『彼』は苦楽を共にしてきたそれら の一つ一つを鮮明に思い出すことができた。そして、同時に無事に逃げることができただろうかと、あの世にいる身でありながら案じずにはおかないのだった。

「エイリアンは全滅できただろうか。乗組員たちは、無事に地球に帰還できただろうか。確か、あの船の脱出用シャトルには、自動的に地球への空間座標を割り出し、転移することができる最新型のワープ装置があったはずだ」

  今の『彼』には、乗組員たちの安否を確認する手段は、もはやただの一つも持ち得なかった。自分の存在は、今やこの世にはないのだから、こればかりは『彼』 にはどうしようもないことだった。だが、最新鋭のワープシステムを搭載しているという事実はしっかりと覚えており、それが『彼』を安堵させる一つの要因と なっていた。

 もう、自分は苦しむことはない。乗組員たちが無事ならばそれでいい。自分はこのまま消えていくのか、それとも、新たな『命』を生みだす糧となるのか。『彼』は、そこで時が自分の魂に審判を下すのを待とうとした。

 だが、その時だった。『彼』の身に、『彼』自身も全く予期していなかった事態が襲いかかってきたのである。

「クッ!? な、何だ!? ぜ、全身が震えるようだ……!」

 『彼』は、突如として、身体中のありとあらゆる器官が大きく震えるような感覚に見舞われた。ここで目を覚ましてから、全く何も感覚を得ることはなかった。暑さも寒さも痛みも、空腹感さえほんのわずか足りとも感じなかった。

 それだけに、急に『彼』の身を襲った、悪寒とも胸騒ぎとも違う謎の身震いは、それだけで『彼』を困惑させるには十分だった。

  しかし、事態はそれだけでは終わらなかった。『彼』の脳裏に、急に色を伴った一つの光景が浮かび上がろうとしていた。それは、最初は砂嵐に覆われたかのよ うにおぼろげとしていたが、徐々に砂嵐が止んでいくに従ってその輪郭があらわになり、全貌が明瞭に映し出されようとしていた。

 だが、そこに出現したのは、つい先程まで『彼』が思い出していた光景とは全く似ても似つかない映像だった。

 

「こ、これが、伝説の剣か!」

「やっと、手に入れることができましたね、勇者様」

「さて、後は聖なる紋章を見つけりゃ、魔王の城の結界を破ることができるってわけか」

「そのためには、まず天界へ行く方法を探らねばならぬ。また骨が折れそうじゃのう」

「ここまで来たら、弱音なんて吐いていられないよ。みんな、行こう。天界への道を開くんだ」

 

「な、何だ、今の光景は!? 勇者!? 伝説の剣!? 一体、何のことだ!?」

 映像は一人の少年が仲間とおぼしき人物たちを鼓舞するところで途切れた。それを見せられた『彼』は強い戸惑いを覚えていた。

 見たこともなければ、無論行った覚えすらない洞窟と思われる場所に、勇者と呼ばれる少年とその一団はいた。そこで、非常に美しい輝きを放つものの、やはり見覚えがない形状の剣を前にして興奮している。

  彼らは、その剣を探してここまで辿り着いたのだろうか。周りにいる者たちの正体は、『彼』には全く分からなかった。どう思い出そうとしても、宇宙船の乗組 員たちと一致する顔が、一つもなかったからである。さらに、今しがた『彼』が見た映像は、紛れもなく勇者と呼ばれた少年の視点からのものだった。

  何故、自分の視点が急に勇者などと呼ばれる少年の目線と同じになったのか。宇宙船の船長として、爆破する船の中で命を散らしたはずの『彼』が、一体何故に 勇者なんていう、どこぞの異世界ファンタジーの英雄的称号で呼ばれなければならないのか。『彼』には、自身を納得させるに値する理由が全く出てこなかっ た。

 そこへ、そんな『彼』を一際混乱の渦に叩き落とそうとするかのように、また『彼』の全身を強烈な震えが襲いかかってきた。そして、再び砂嵐に覆われた色彩が『彼』の脳裏に映し出された。

 砂嵐が次第に取り払われ、鮮明な映像が再び『彼』の眼前に広がっていく。そこに出現したのは、先程とはまた違う、大勢の男女が一人の青年の言動に注目している光景だった。

 

「何と、そんなトリックを犯人が仕掛けていたとは」

「このトリックを使えば、あたかもその時刻に殺人が起こったと見せかけることができます。恐らく、あの脅迫状を書いたのも犯人でしょう。ただ、予想していたよりも早くトリックが作動してしまったことが、犯人にとって一番の誤算でしたね」

「それで、犯人は一体誰だっていうんだ?」

「あの時、我々が応接室に集まってから、窓ガラスが割れる音を聞くまではたったの一時間。犯人は、それよりも前にトリックを仕掛け、応接室にやってきた。それができた人物、つまり犯人は……あなたですね!」

 

「何だと!? こ、今度は俺は何をした!? トリック!? 脅迫状!? 俺は一体何を言っているんだ!?」

 映像は、青年が一人の女性を指差したところで途切れた。周囲の人間たちの驚く表情、そして指を差された女性が一際驚愕する顔が一瞬だけ見えたが、その先に何が起こったのか、そして彼らがどうなったのかは、もはや知る術はなかった。

  そして、『彼』が見た映像は、確かにその青年の視点そのものであり、青年がその場所で発生した殺人事件を解決すべく、皆に向かって雄弁に自分の推理を語っ て聞かせている様子が想像された。女性を指差した時の筋肉の微妙な動きや目線の配り方まで、『彼』は自分自身の感覚として強く感じ取っていた。

「ど、どうなっているんだ? 俺が勇者だって? それに、妙な探偵ごっこみたいな真似までしていやがる。俺は、宇宙船の船長だったはずだぞ。勇者や探偵もどきなんかでは断じてない!」

 全く何の脈絡も見出すことができない二つの映像。勇者となって、恐らく世界の危機を救うために冒険を繰り広げているのであろう光景と、いわゆる探偵となって、ふとしたことで巻き込まれてしまった殺人事件の解決に乗り出し、今まさに犯人の正体を暴こうとしている光景。

  そして、それらは互いに結びつくところがないばかりではなく、つい先程まで『彼』が自分自身の記憶として認識していた、宇宙船の船長として壮絶な最期を遂 げた一連の光景とも全く噛み合うところがない。一体、これらの映像は、自分に何を伝えようとしているのか、『彼』には全く理解できなかった。

「な、何だ、こいつは……!?」

 その時だった。『彼』の視界に、『彼』に向かって伸びていく二つの物体が暗闇の中から現れていくのが見て取れた。今までここには自分以外は何も存在していないと思っていた『彼』にとって、その物体は実に奇天烈なものに映った。

  その物体の正体は二つの巨大な『手』だった。暗闇の中に浮かび上がる、薄いピンク色がかかった肌色の皮膚を持つその『手』は、途中まで『彼』に向かって 真っ直ぐ伸びていったかと思うと、途中で左右それぞれが離れ、両側から『彼』に掴みかかろうとするような動きを見せていた。

「こ、この『手』は一体何だ? 何故、俺を捕まえようとするんだ?」

 抵抗しようと思った、いや、正確には思おうとしたが、何の力も有していない今の『彼』にはどうすることもできなかった。二つの『手』は『彼』をすくい上げるかのように挟み込みながら掴んだ。

 『手』は『彼』を掴んだまま数刻の間動かなかったが、しばらく経った時、両方合わせて十本の指を動かし、『彼』の身体をこね回し始めた。まるで粘土細工でもするかのように、『彼』の身体を『彼』自身の意に反して弄んでいく二つの『手』。

 ひねってみたり、叩いてみたり、あるいは揉み込んでみたりしているようだったが、痛覚など持っていない今の『彼』にとっては、自分が今何をされているのかを理解する材料には到底なり得なかった。

 さらに、それまで一面の暗黒に覆われていた空間に、小さな光が灯り始めていくのが見て取れた。最初は本当にゴマ粒程度の小さな光が現れただけだった。しかし、それは少しずつ数を増やしていき、それらが次第に集まっていくことで徐々に大きな光を形成していった。

「こ、これは、どういうことなんだ? この光は、一体、何なんだ?」

  抵抗することも叶わず、二つの『手』にいじり回される『彼』の身体。そして、暗黒の世界を消し去ろうとするかのように灯っていく光。光は一つ、また一つと 色を帯びるようになり、その色が寄り集まることで新たな色を作り出していく。さらに、それらの色がある規則性を持って集合することにより、それが何かの意 味を成す形を見せ始めていた。

 やがて、暗黒が完全に消滅し、あたり一面が無数の色で覆われた空間に変貌を遂げると、それまで『彼』の全身を掴んでいた『手』がゆっくりと『彼』から離れていった。

 『手』が蜃気楼の如く消え去った時、『彼』は自分の身体が色彩空間の中に放り出された状態になっていることに気が付いた。そして、『彼』はそのまま音もなくどこかへ静かに落下していった……。

 

 七月もすでに下旬に差しかかろうとしていた。この時期は早朝といえども照りつける太陽がうだるような暑さをもたらし、本格的な夏の到来を人々に告げるようでもあった。

 日中ともなると日陰で安静にしていてもなお大量の汗が全身から噴き出してくるほどの熱気が押し寄せてくる。もし日向(ひなた)に長時間いようものなら、日射病や熱射病といった、夏特有の容態の急変に見舞われてしまうことは必至であろう。

  そんな中、とある住宅街に面した比較的細い通りを歩く、一人の学生服姿の男の子がいた。男の子は潰れかけた学生カバンを肩に抱えるようにして持ち、暑さを 少しでも紛らわそうとするためなのだろう、時折学生服の襟元を手で扇ぎながら少しでも身体に風を当てようとする様子が見えた。

「おはよう、哲也」

 と、男の子の背中から、可愛らしい女の子らしき声が耳に届いてきた。彼がそれに気付いて後ろを振り返ると、そこには、長い髪をポニーテールでまとめた女の子が立っていた。

 紺色を基調とした、昔ながらの古風な印象のあるセーラー服がよく似あう女の子だった。この女の子が、先程男の子に声をかけた主であろうことは想像に難くなかった。

「おお、佐織か。相変わらず早起きだな」

「そんなことないわよ。最近は哲也の方が早起きしているんじゃないの?」

「んんっ? まあな。お前に散々叩き起こされ続けたおかげで、すっかり早起き癖がついちまったみたいだ」

「いいことじゃないの。そういうのは、大人になってから役に立つものなのよ」

 二人はそうすることに何の疑いも抱いていない様子で並んで歩きながら、取り立てて話題にするほどのことでもない雑談に花を咲かせている。その光景は、この二人が単なる赤の他人同士ではないことを如実に物語るものだった。

 二人の歩幅はほとんど同じ調子で一定のリズムを刻んでいた。どちらかというと、本来の歩幅は男の子の方が広くて歩く速度も上なのであるが、遅い女の子の歩幅に男の子が合わせているような印象があった。

「……な、何だ、この女は? 俺が哲也だって? 何で、俺はそれに平然と応えているんだ?」

 そんな中、『彼』は強烈な混乱に苛まれていた。自分がその男の子と意識を同一にし、男の子の視点で周囲の景色を眺め、すぐ横にいる女の子とさも当然のように会話を交わしている。その事実が、『彼』には容易に受け入れ難かった。

「ち、違う! 俺はそんなんじゃない! 俺は宇宙船の船長なんだ! エイリアンの攻撃を受け、船と運命共同体になったんだ! そんな俺が、何故こんな姿になっているんだ!?」

 自分が確信を持って信じていた記憶と食い違う映像を、三度に渡って見せつけられた『彼』は、それを整理する術が見つからず、半ば発狂寸前の状態だった。

  一体、自分は本当は何者なのか。宇宙船の船長である一方、勇者でもあり探偵もどきでもあり、また学生でもある自分の真の姿は一体どこにあるのか。この記憶 と映像に、自分は何の関係があるのか。『彼』は、一人の男の子として振舞う一方、もう一つの意識を持って必死に自分の正体を探り出そうとした。

「……あっ! そうか、そういうことだったのか……」

 その時、『彼』は先の映像以外にも実に多種多様な映像が自分の意識の中に流れ込んでいくのを感じた。一見無作為に送り込まれる種々の映像群。しかし、それらが竜巻のように彼の意識下で吹き荒れ回った時、『彼』は全てを悟った。

「俺は……俺の本当の姿は……」

 自分は、これまでにも幾度となく同じことを繰り返してきたのだ。それこそ、数え切れない、いや、数えることすら億劫になるほどに。そして、それは全て自分の意志ではなく、あの巨大な『手』によって導かれていたのだと。

 あの『手』が『彼』に様々な記憶と意識を植え付けると共に、それに適応した歴史を有する世界を作り出し、そこに送り出す。そこで果たすべき役目を終えると、それまで存在していた世界は一瞬にして瓦解し、黒く塗り潰されてしまう。

  『彼』があの世だと思い込んでいたのは、実はそんなものではなかった。そもそも、ここにあの世などという概念自体が存在していなかった。そこは、文字通り 何もない場所。まだ何も作られていない『無』の空間。そして、またあの『手』が『彼』を作り変え、それに符合するように『無』を意味ある世界に作り変えて しまう。

 『彼』は、同時にそれが自分の運命であり、存在意義であり、そこから決して逃れることはできないことにも気付いていた。例え、あの『手』が自分や世界を作り変えることをやめたとしても、また別の『手』が同じ役目を引き継ぐだけ。

  『手』の役割を担う者がいなくならない限り、自分は世界の創造と活動、そして崩壊を何度も目の当たりにしなければならない。そして、時に自分が世界の中心 となり、あるいは世界から疎まれる存在となる。それは、全て『手』によって与えられた使命であり、それに抗うことは決して許されないのだ。

 次に『彼』が覗き見る景色は、果たしてどのようなものなのだろうか。『手』はこの哲也と名乗る男の子の目に、果たしていかなる光景を用意しているのだろうか。そして、『手』は『彼』に今度はどのような使命を与えようとしているのだろうか。

 『手』が導く数多の創世。それは、これからも終わることなく繰り返される。永遠に、永遠に……。

戻ります